札幌の今昔(16) 大倉シャンツェから大倉山ジャンプ競技場へ
札幌はウインタースポーツシーズンたけなわなです。スキー競技の花形といわれるジャンプ競技も相次いで開催されていますが、中でも札幌の山の手宮の森にある標高307メートルの大倉山東斜面のジャンプ競技場は国際的にも認められた競技場としてばかりでなく、シーズを通して札幌の観光スポットの一つとして脚光を浴びています。このジャンプ台が最初に出来たのが昭和6年で、昭和天皇の弟宮である秩父宮殿下のお口添いで大倉喜七郎男爵が私財を投じて建設し札幌市に寄付したのが始まりです。

上の写真は、昭和6年10月に完成したジャンプ台ですが、制作は、シャンツエ構築の世界的権威者であるオラフ・ヘルセット中尉の設計によるものでした。総工費は5万円余りでアプローチの全長100m、幅6m、ランデイングバーンの全長130m、幅10-13mの[60m級シャンツエ]でした。
翌年の昭和7年1月に開場式が行われ、当時の札幌市長橋本正冶さんが大倉男爵の功績に応えて[大倉シャンツエ]と命名しました。(シャンツエは、ドイツ語でジャンプ台の事です)その後永年にわたり[大倉シャンツェ]の名前で親しまれてきました。


上の写真は、大倉男爵顕彰碑てすが、平成11年にリフトの登り口に建立されています。

上の写真は、昭和10年当時の大倉シャンツェです。札幌のスキー競技が大きく普及した要因の一つは、今日まで続いている[宮様スキー大会]です。昭和5年に秩父宮・高松宮来道記念大会を開催したのが宮様スキーの始まりで第一回大会から第三回大会までは何週間にわたり日曜日のみの開催でした。第三回大会からは新設された大倉シャンツエにおいてもジャンプ競技が開催されました。宮様スキー大会生みの親であり大倉山とは既つても切れないのが初代の札幌医大学長を務めた大野精七博士です。大倉山の発展とともに歩み続けた博士は昭和57年12月97歳で逝去されましたが、北海道スキー界の発展に多大の功績を残された、大野精七博士の功績を称えて大野精七博士顕彰碑が昭和57年3月先生と縁の深い大倉山ジヤンプ競技場に設置されました。

宮様スキー大会を契機としてジャンプ競技も大きく発展しましたが、その原動力となったのはテレビ放送です。テレビ中継の歴史を振りかえって見ると、我が国で初めてジャンプ競技を中継を行ったのは1958.3.2日(昭和33年)の第13回国体冬季スキー大会の純ジャンプでした。この中継は前年の1957年4月に開局した民放テレビのHBC(北海道放送)がNHKに先駆けて実施したものです。その後北海道にも相次いで民放テレビ局が開局し、今日ではジャンプ中継はNHKを始め在札民放テレビが各社のウインターイベントとして中継放送を行っています。

ジャンプ競技の普及に伴い昭和27年には80m級に改修され、同時にこの後の国体に対応すべく70m級の[雪印シャンツェ]も併設されました。しかし大倉山を大きく変えたのは昭和47年2月に開催された第11回冬季オリンピック札幌大会でした。この為昭和45年から大改修工事が行われ、観客数5万人を収容できるスタンドなども整備され、国立競技場として文部省に移管されることとなり名称も[大倉シャンツェ]から[大倉山ジャンプ競技場]と変りました。

札幌オリンピックでは、大倉山ジャンプ競技場では90m級、宮の森ジャンプ競技場では70m級のジャンプ競技が行われましたが、中でも終生忘れることが出来ないのは1972年2月3日の宮ノ森ジャンプ競技場での快挙でした。この日札幌の空は青空が拡がる快晴、いよいよ待ちに待った70㍍級ジャンプ競技が始まりスタンドの観衆が総立ちで声援を送る中、日本選手は笠谷幸生、今野昭次、青地清二の三選手が揃って大健闘、笠谷が金、今野が銀、青地が銅とメタルを独占し、スタンドは興奮の坩堝と化しました。国歌が競技場にこだまし、青空に照り映える三本の国旗に観衆は暫し我を忘れて感動に浸ったものでした。下の写真は感動の一シーンです。

世紀の祭典札幌オリンピックも無事終了しましたが、この大会を記念した碑が競技場入口に建立されました。


大倉ジャンプ競技場の正面には、2004年亡くなった詩人の川邨文一郎さんが札幌冬季オリンピツクのため作曲した[虹と雪のバラード]の詩碑が建立されています。この詩碑は、歌詞を記した黒御影石の銘板と、ギリシア神話の勝利の女神[ニケ像]をモチーフにした、高さ2.5メートルの翼の形をしたモニュメントで国松明日香さんが制作されたものです。この歌は、トワ・エ・モアが歌っているお馴染みの歌です。
現在の大倉山ジャンプ競技場




写真上から[駐車場に通ずるエスカレーター][札幌ウインタースポーツミュージアム]
写真下は、競技場の全景パネル

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この植物園が生まれるきつかけとなつたのは、クラーク博士の提言に基づくもので、札幌農学校は所有する温室とその付属地など(現在の中央区北4条東1丁目付近)を合わせて植物園を設立することとし、1880年頃(明治13年頃)には、北海道産の樹木70種ほどの移植を行っています。1883年(明治16年)、農学校の助教授となつた宮部博士は新しく植物園の設立計画責任者となり設立に着手しました。その後1884年(明治17年)博物場及び付属地約15,000坪が植物園用地として農学校に移管され、ここに現在の植物園が誕生することとなりました。1900年(明治33年)には、宮部博士が初代園長に就任しています。









1911(明治44)年の植物園一般公開に伴って建設されたものです。




東京で創設された[開拓使仮学校]は、1875年(明治8年)に[札幌学校]と改称されて札幌に移りました。開校式は1875年9月7日で、校舎は現在の札幌時計台の側にあった外国人の寄宿舎を改築して使用していました。この[札幌学校]も、翌1876年には[札幌農学校]と名前を変えて開校しました。





1876年(明治9年)開校した[札幌農学校]は、1903年(明治36年)現北海道大学のキヤンパスに移転しました。その後、1907年(明治40年)には[東北帝国大学農科大学]となり、大正年代に入り1918年(大正7年)には[北海道帝国大学]となりました。
北大キヤンパスの正門を入ると事務局の建物の脇に[初代総長佐藤昌介先生]と言う銘板を付けた胸像が建立されています。佐藤昌介氏(さとうしょうすけ)は、1939年(昭和14年)6月5日、84才の生涯を終えましたが、札幌農学校の第一期生として卒業後、農学校の校長、東北帝国大学農科大学の学長、北大の初代総長を歴任されるなど北大と共に歩んだ生涯は、今日の北大発展の最大の功労者として語り続けられています。
大本営がおかれた農学部の写真です。(この写真は、北大創基125周年記念展示のパネルからお借りしました)。
この銅像は、島義勇判官銅像で北海道神宮の正門にある神門左手の樹木の間に勇姿を顕しています。北海道神宮が昭和39年に造営が竣功しその10周年にあたる昭和49年に記念事業として建立されたものです。この碑は、4メートルを超す大きな像で、島義勇が背中に開拓三神を背負っています。島は北海道に渡る際、神祗官から[開拓の三神]を授けられていました。これは、太政官訓令の中に、石狩に本府を建て、祭政一致の建前から神を祀る事を命令されていたためです。島は9月25日函館に着き、単身開拓三神を背負って陸路札幌に向かい10月12日銭函に到着して札幌市北5条東1丁目に仮役所を設け[一の宮]と称しました。また、銭函到着後直ちに先発隊を札幌に向かわせて神社予定地を見定め現在地に決定しました。この案内役を務めたのが渡守志村鉄一であり、宿泊所が吉田茂八宅でした。当初は仮宮の[札幌神社]でしたが1871年(明治4年)現在地に移されています。








島義勇は札幌の街造りを始めるに当たり、現在の南1条通を創成川(大友堀)に直交させこれを基礎と定めました。




市制が施行され初代の市長には、高岡直吉氏が就任されました。氏は、門司市長でしたが、札幌農学校の卒業生でもあり札幌とも縁の深い方でした。市の庁舎には、明治41年に建てられた北1条西2丁目の区役所をそのまま使用しましたが、手狭になった為新規に建築することとなり、新庁舎は昭和12年3月31日に北1条西4丁目に落成しています。下記の写真が新庁舎です。















大友亀太郎は、1834年(天保5年)現在の神奈川県小田原で生まれました。1858年(安政5年)に渡道し、1866年(慶応2年)には函館奉行に蝦夷地開墾の計画書を提出し、石狩地方の開墾の命を受けて現在の札幌市東区(旧元村)に土地を選んで開墾し、札幌の街造りの発端となりました。






































