2012年1月23日 (月)

札幌の今昔(16) 大倉シャンツェから大倉山ジャンプ競技場へ

札幌はウインタースポーツシーズンたけなわなです。スキー競技の花形といわれるジャンプ競技も相次いで開催されていますが、中でも札幌の山の手宮の森にある標高307メートルの大倉山東斜面のジャンプ競技場は国際的にも認められた競技場としてばかりでなく、シーズを通して札幌の観光スポットの一つとして脚光を浴びています。このジャンプ台が最初に出来たのが昭和6年で、昭和天皇の弟宮である秩父宮殿下のお口添いで大倉喜七郎男爵が私財を投じて建設し札幌市に寄付したのが始まりです。
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上の写真は、昭和6年10月に完成したジャンプ台ですが、制作は、シャンツエ構築の世界的権威者であるオラフ・ヘルセット中尉の設計によるものでした。総工費は5万円余りでアプローチの全長100m、幅6m、ランデイングバーンの全長130m、幅10-13mの[60m級シャンツエ]でした。

Ookura02翌年の昭和7年1月に開場式が行われ、当時の札幌市長橋本正冶さんが大倉男爵の功績に応えて[大倉シャンツエ]と命名しました。(シャンツエは、ドイツ語でジャンプ台の事です)その後永年にわたり[大倉シャンツェ]の名前で親しまれてきました。

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上の写真は、大倉男爵顕彰碑てすが、平成11年にリフトの登り口に建立されています。
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上の写真は、昭和10年当時の大倉シャンツェです。札幌のスキー競技が大きく普及した要因の一つは、今日まで続いている[宮様スキー大会]です。昭和5年に秩父宮・高松宮来道記念大会を開催したのが宮様スキーの始まりで第一回大会から第三回大会までは何週間にわたり日曜日のみの開催でした。第三回大会からは新設された大倉シャンツエにおいてもジャンプ競技が開催されました。宮様スキー大会生みの親であり大倉山とは既つても切れないのが初代の札幌医大学長を務めた大野精七博士です。大倉山の発展とともに歩み続けた博士は昭和57年12月97歳で逝去されましたが、北海道スキー界の発展に多大の功績を残された、大野精七博士の功績を称えて大野精七博士顕彰碑が昭和57年3月先生と縁の深い大倉山ジヤンプ競技場に設置されました。
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宮様スキー大会を契機としてジャンプ競技も大きく発展しましたが、その原動力となったのはテレビ放送です。テレビ中継の歴史を振りかえって見ると、我が国で初めてジャンプ競技を中継を行ったのは1958.3.2日(昭和33年)の第13回国体冬季スキー大会の純ジャンプでした。この中継は前年の1957年4月に開局した民放テレビのHBC(北海道放送)がNHKに先駆けて実施したものです。その後北海道にも相次いで民放テレビ局が開局し、今日ではジャンプ中継はNHKを始め在札民放テレビが各社のウインターイベントとして中継放送を行っています。
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ジャンプ競技の普及に伴い昭和27年には80m級に改修され、同時にこの後の国体に対応すべく70m級の[雪印シャンツェ]も併設されました。しかし大倉山を大きく変えたのは昭和47年2月に開催された第11回冬季オリンピック札幌大会でした。この為昭和45年から大改修工事が行われ、観客数5万人を収容できるスタンドなども整備され、国立競技場として文部省に移管されることとなり名称も[大倉シャンツェ]から[大倉山ジャンプ競技場]と変りました。
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札幌オリンピックでは、大倉山ジャンプ競技場では90m級、宮の森ジャンプ競技場では70m級のジャンプ競技が行われましたが、中でも終生忘れることが出来ないのは1972年2月3日の宮ノ森ジャンプ競技場での快挙でした。この日札幌の空は青空が拡がる快晴、いよいよ待ちに待った70㍍級ジャンプ競技が始まりスタンドの観衆が総立ちで声援を送る中、日本選手は笠谷幸生、今野昭次、青地清二の三選手が揃って大健闘、笠谷が金、今野が銀、青地が銅とメタルを独占し、スタンドは興奮の坩堝と化しました。国歌が競技場にこだまし、青空に照り映える三本の国旗に観衆は暫し我を忘れて感動に浸ったものでした。下の写真は感動の一シーンです。
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世紀の祭典札幌オリンピックも無事終了しましたが、この大会を記念した碑が競技場入口に建立されました。
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大倉ジャンプ競技場の正面には、2004年亡くなった詩人の川邨文一郎さんが札幌冬季オリンピツクのため作曲した[虹と雪のバラード]の詩碑が建立されています。この詩碑は、歌詞を記した黒御影石の銘板と、ギリシア神話の勝利の女神[ニケ像]をモチーフにした、高さ2.5メートルの翼の形をしたモニュメントで国松明日香さんが制作されたものです。この歌は、トワ・エ・モアが歌っているお馴染みの歌です。
現在の大倉山ジャンプ競技場
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写真上から[駐車場に通ずるエスカレーター][札幌ウインタースポーツミュージアム]
写真下は、競技場の全景パネル
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2012年1月13日 (金)

札幌の今昔(15) 北大付属植物園・博物館の変遷

開拓使時代からの長い歴史を持ち現在では札幌を代表する観光スポットとして、また、都市中心部の貴重なオアシスとして良く知られているのが北大付属植物園・博物館です。明治19年に開園した植物園・博物館も永い歴史の変遷を経て現在は[北海道大学北方生物圏フイールド科学センター植物園 博物館(写真下右図)と名称も変っています。
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札幌農学校が開校した当時現在の植物園周辺は巨木が生い茂る原野でしたが開拓使はこの原野を放牧場としました。明治15年その中に開拓使の博物場を建設しましたが゜、それ以前に博物場の前身にあたる仮博物場を偕楽園の中に設けています。これらが現在の植物園・博物館の原点です。
写真下上図は、明治10年[偕楽園]に設けられた開拓使仮博物場、写真下中図は、明治15年に落成した開拓使博物場の落成式、写真下下図は、開業間もない博物場です(所蔵 北大付属図書館)
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明治17年に至り、博物場と付属地15.000余坪が植物園用地として札幌農学校に移管され植物園用地になりました。
En9この植物園が生まれるきつかけとなつたのは、クラーク博士の提言に基づくもので、札幌農学校は所有する温室とその付属地など(現在の中央区北4条東1丁目付近)を合わせて植物園を設立することとし、1880年頃(明治13年頃)には、北海道産の樹木70種ほどの移植を行っています。1883年(明治16年)、農学校の助教授となつた宮部博士は新しく植物園の設立計画責任者となり設立に着手しました。その後1884年(明治17年)博物場及び付属地約15,000坪が植物園用地として農学校に移管され、ここに現在の植物園が誕生することとなりました。1900年(明治33年)には、宮部博士が初代園長に就任しています。

札幌農学校の所管となった植物園は年々整備が進められ、博物場も札幌農学校博物館として基礎が確立しました。写真上は、明治30年当時の植物園の様子と、写真下は、温室の様子です。(所蔵 北大付属図書館)。
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札幌農学校も明治40年には東北帝国大学農科大学と変りそのため植物園の呼称も変りました。明治年代末期の様子です。写真下上図は、正面入り口の様子、下下図は、園内の様子です。(所蔵 北大付属図書館)。
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大正年代に入り大正7年には農科大学も北海道帝国大学となり、植物園も北大農学部付属植物園となりました。園内も整備が進み博物館などの内容が充実するに伴い訪れる市民の数も年々増加してきました。昭和30年代がピークで年間50万人が訪れたと記録されています。下の写真は昭和12年当時の行楽時の様子です。(所蔵 北大付属図書館)。
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この植物園には歴史的な建造物も多く現在も保存されています。これらは何れも重要文化財に指定されています。
博物館本館
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1882(明治15)年に開拓使の札幌博物場として建てられた博物館で、現役の博物館建築としては日本最古のものです。
博物館倉庫
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1885(明治18)年に設置された標本保管用の収蔵庫です。
博物館事務所
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1901(明治34)年に竣工した博物館の事務所です。
宮部金吾記念館
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1901年に札幌農学校動植物学教室として建てられた建物の東半分、植物学教室を1942年に植物園に移築して、長い間植物園庁舎として利用してきました。1991年に北半分を取り壊し、初代園長宮部金吾博士の遺品を展示公開する記念館として生まれ変わりました。
バチェラー記念館
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「アイヌの父」と呼ばれたイギリス人宣教師J.バチェラーが離日する1940年まで居住していた邸宅です。
門衛所
En161911(明治44)年の植物園一般公開に伴って建設されたものです。

植物園は、周りをビルに囲まれた中に120年余の歴史を刻みつつ巨大な森の姿を今に留めています。この写真はJRタワー38階の展望室から俯瞰したものです。
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植物園内
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2012年1月 3日 (火)

札幌の今昔(14) 札幌農学校から北海道大学へ

現在の北海道大学の歴史は古く[開拓使仮学校(後の札幌農学校)]の開学にはじまります。下左図は、当時の開拓使仮学校、右図は、現在の記念碑です。
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札幌農学校の原点は[開拓使仮学校]の創設に始まります。1869年(明治2年)開拓使が東京芝の増上寺に設置されましたが、1872年(明治5年)北海道開拓に携わる有能な人材を育成するため開拓使と同じ増上寺の境内に[開拓使仮学校]を併設しました。生徒の定数は、官費生50名、私費生50名の合計100名で、卒業後官費生は10年、私費生は5年北海道の開拓に従事することが義務づけられていました。この学校の経営には当時の開拓次官黒田清隆が中心になっていましたが、招聘され来日したホーレス・ケプロンも開拓使顧問として学校の運営に携っていました。
Hokudai3東京で創設された[開拓使仮学校]は、1875年(明治8年)に[札幌学校]と改称されて札幌に移りました。開校式は1875年9月7日で、校舎は現在の札幌時計台の側にあった外国人の寄宿舎を改築して使用していました。この[札幌学校]も、翌1876年には[札幌農学校]と名前を変えて開校しました。

上図は、札幌学校の講堂です。
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明治12年当時の札幌農学校の全景です(所蔵 北大付属図書館)。
明治31年札幌農学校の校舎移転事業が5ケ年の計画で現在の北大キャンパスへの移転が進められました。下記の写真は移転計画地での記念植樹の様子です(明治31年当時 所蔵 北大図書館)。
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新しい移転先には、次々と校舎の建設が進められました。その中で現在も往時の姿を留めているのが[昆虫学教室(明治34年落成)]と、[図書館(明治35年落成)]です。
昆虫学教室
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図書館
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また、現在の農学部の前身である[農学講堂も明治35年に落成し、八角ドームの時計塔の校舎は威容を誇っていました(所蔵 北大図書館)。
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明治36年には、農学校の移転は完了しました。現在南門にある[門衛所]も明治36年建設されたもので、昭和11年に現在の正門が出来るまでは現在の正門の処にあったものです。
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札幌農学校から東北帝国大学農科大学へ
Hokudai121876年(明治9年)開校した[札幌農学校]は、1903年(明治36年)現北海道大学のキヤンパスに移転しました。その後、1907年(明治40年)には[東北帝国大学農科大学]となり、大正年代に入り1918年(大正7年)には[北海道帝国大学]となりました。

写真下図は現在の[古河講堂]です。[東北帝国大学農科大学]時代の明治42年に[古河家]の寄贈で落成しました。
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北大半世紀の歴史を築いた佐藤昌介
Hokudai11北大キヤンパスの正門を入ると事務局の建物の脇に[初代総長佐藤昌介先生]と言う銘板を付けた胸像が建立されています。佐藤昌介氏(さとうしょうすけ)は、1939年(昭和14年)6月5日、84才の生涯を終えましたが、札幌農学校の第一期生として卒業後、農学校の校長、東北帝国大学農科大学の学長、北大の初代総長を歴任されるなど北大と共に歩んだ生涯は、今日の北大発展の最大の功労者として語り続けられています。

東北帝国大学農科大学から北海道帝国大学へ
大正7年4月北海道帝国大学が設置され、東北帝国大学農科大学が北海道帝国大学農科大学となり、翌大正8年2月に北海道帝国大学農科大学が農学部に改称され、その後医学部、工学部、理学部、法文学部が設置されました。
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北大キャンパスの中でクラーク像は良く知られていますが、上の写真は、クラーク像と道を挟んで建立されている石碑[聖蹟碑]です。この石碑は、昭和11年10月北海道で陸軍特別大演習が行われた際、新築真近な農学部が昭和天皇の行在所と大本営となった事を記念したものです。
Hokudai13大本営がおかれた農学部の写真です。(この写真は、北大創基125周年記念展示のパネルからお借りしました)。

北海道帝国大学から北海道大学へ
昭和22年10月北海道帝国大学は北海道大学に変りその後平成時代に入り平成16年4月からは国立大学法人北海道大学となっています。

[北大キャンパス散策記]

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2012年1月 1日 (日)

札幌の今昔(13) 札幌神社から北海道神宮へ

あけましておめでとうございます。2012年の新年を迎え新年恒例の初詣には北海道神宮にも多くの参詣者が訪れる事と思います。現在の北海道神宮の歴史的変遷を振り返ってみたいと思います。
Jinguu01この銅像は、島義勇判官銅像で北海道神宮の正門にある神門左手の樹木の間に勇姿を顕しています。北海道神宮が昭和39年に造営が竣功しその10周年にあたる昭和49年に記念事業として建立されたものです。この碑は、4メートルを超す大きな像で、島義勇が背中に開拓三神を背負っています。島は北海道に渡る際、神祗官から[開拓の三神]を授けられていました。これは、太政官訓令の中に、石狩に本府を建て、祭政一致の建前から神を祀る事を命令されていたためです。島は9月25日函館に着き、単身開拓三神を背負って陸路札幌に向かい10月12日銭函に到着して札幌市北5条東1丁目に仮役所を設け[一の宮]と称しました。また、銭函到着後直ちに先発隊を札幌に向かわせて神社予定地を見定め現在地に決定しました。この案内役を務めたのが渡守志村鉄一であり、宿泊所が吉田茂八宅でした。当初は仮宮の[札幌神社]でしたが1871年(明治4年)現在地に移されています。

創建当時の札幌神社(写真は、北大付属図書館所蔵)
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円山の地に鎮座した札幌神社(北海道神宮)は、積雪の為冬期の参拝に困難を極めました。その為、明治11年札幌神社の遙拝所(現在の頓宮)として南2条東3丁目に設置されました。頓宮とは神輿渡御の際の御宿所という意で、毎年6月の例大祭に駐輦祭が斎行されています。写真は、現在の頓宮社殿です。
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明治4年には現在地に社殿を建て、社名を札幌神社と定めましたが、翌明治5年には官幣小社、明治26年には官幣中社、明治32年官幣大社と昇格を重ねて来ました。
明治20年の例大祭
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明治30年代の花見風景
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大正2年には、伊勢神宮の古材を拝受して本殿、拝殿などを造営しました。造営した神社の全景です(北大付属図書館所蔵)
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昭和39年には明治天皇を増祀し、社名も「北海道神宮」と改称しました。、現在の北海道神宮の社殿は、昭和49年放火に遭い、昭和53年に復興されたものです。
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2011年12月14日 (水)

札幌の今昔(12) 札幌区役所から札幌市役所へ

現在の札幌市の歴史は、明治2年の開拓使による札幌本府の建設を嚆矢とします。島義勇、岩村通俊等により札幌の中心部を中心に本府の建設が進められました。
Sapporo01島義勇は札幌の街造りを始めるに当たり、現在の南1条通を創成川(大友堀)に直交させこれを基礎と定めました。

開拓使による札幌本府の開発が進められる中で、行政面でも様々な変化がありました。時系列的に列挙すると次のようになります。
1. 明治7年2月には[大小区制]が施行され、札幌市街を第一小区から第三小区に分け、周辺村落の[円山][琴似][上下両手稲][発寒][山鼻]の六村を第四小区、[豊平][上白石][白石][平岸][月寒]の五村を第五小区、[札幌][雁木][苗穂][丘珠][篠路][対雁][江別]の七村を第六小区としこれらを[札幌第一大区区務所]の管轄下に置き同一行政区画としました。
2. 大区には[区長]その下の小区には[戸長]が置かれました。
3. その後明治12年には[郡区編制法]画施行された為、大小区を廃止して[郡区町村]を編成しましたが、札幌区役所はこれまでと同様札幌市街と前記の各村を包含した為、札幌区は札幌全郡を管轄する事となりました。

札幌区役所の落成
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明治12年には札幌区役所が現在の南2条西5丁目に建設され翌13年3月1日に開庁しましたが、明治25年の大火災で区役所始め887戸、市街の5分の1が焼失。明治42年北1条西2丁目に新庁舎が落成しました。
5. 明治17年4月1日、[札幌区役所]は、札幌市街のみを管轄することとなり、市街外の各村は新たに設けられた[札幌郡役所]の所轄区域に編入される事となりました。
6.明治32年には、区政(市よりも小さく町よりも大きい行政区画)が施行され[札幌区][函館区][小樽区]が誕生しましたが、当時の札幌は、ハコダテ、小樽よりも人口が少なく、大正9年之第一回国勢調査では、函館区144.749人、小樽区108.113人に対し札幌区は、102.580人でした。しかし大正15年には札幌の人口も206.103人と増え函館を抜いて全道一となりました。
上図は、明治42年北1条西2丁目に落成した新庁舎です。. 明治13年に開庁した初代の区役所時代から明治42年の新区役所時代までの間札幌市街は大きく発展を遂げました。
本願寺道路の開通
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[本願寺街道]は、胆振国尾去別(現在の伊達市)から札幌市の平岸に至る二十六里十町(約103km余)の道路で明治3年7月から1年3ケ月の工期を経て翌明治4年10月に完成しました。現在の国道230号の基礎となっている道路です。
札幌本道の開通
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写真は、現在の国道36号三里塚です。明治5年から6年にかけてこれまでの札幌越新道(銭函から千歳)をベースに札幌本道が建設され、現在の国道36号になっています。
小樽手宮ー札幌間鉄道開通
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明治13年には小樽手宮と札幌間に始めて鉄道が開通しましたが、この年には豊平館も竣工されています。
7. 札幌市の誕生
大正11年(1922年)8月1日には、北海道にも府県同様の[市制]が施行され[札幌市]が誕生しました。この年の北海道の人口は240万で、札幌区の他に[市制]を敷いたのは函館、小樽、旭川、室蘭、釧路の5区でした。新しい札幌市は、戸数22,915戸、人口127,044人で函館に次いで道内では二番目でした。
Sapporo07市制が施行され初代の市長には、高岡直吉氏が就任されました。氏は、門司市長でしたが、札幌農学校の卒業生でもあり札幌とも縁の深い方でした。市の庁舎には、明治41年に建てられた北1条西2丁目の区役所をそのまま使用しましたが、手狭になった為新規に建築することとなり、新庁舎は昭和12年3月31日に北1条西4丁目に落成しています。下記の写真が新庁舎です。

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市制施行後の札幌は、年とともに発展の一途を辿り都市化が進む中で中心部の再開発が進められこの庁舎も新しく建て替えられる事となりました。特に昭和47年開催の冬季オリンピツク札幌大会を契機に札幌市は飛躍的な発展を遂げ昭和45年には人口も100万人を突破して100万都市の仲間入りを果たす事が出来ました。行政の拡大に対応すべく昭和46年には新しい市役所の庁舎が落成し、翌昭和47年には区制が施行され当初は7区制でスタートしましたが、現在は10区制(中央区、東区、西区、南区、北区、白石区、豊平区、厚別区、手稲区、清田区)となつています。
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新しい市役所本庁舎は、かって中央創成小学校があった跡地に建てられており、現庁舎の前庭にはその記念碑も建立されています。

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2011年12月 3日 (土)

札幌の今昔(11) 開拓使本庁舎から北海道庁へ

明治2年[蝦夷地]は、[北海道]と改められ開拓使制度が設けられて本格的な北海道の開拓が進められる事となりました。下図は、[開拓使仮庁舎]です。開拓使は、明治3年4月、[開拓使本庁舎]の本格的な事業を行う為札幌本府の建設に着手し開拓使仮庁舎を現在の北4条東1丁目に建設しました。
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札幌本府の建設に当たり最大の事業は[開拓使本庁舎]の建設でした。現在の北海道庁を中心として、東西は西4丁目から西8丁目、南北は北1条通から北6条通までの約9万4千坪に及ぶ広大な敷地でした。本庁舎は、現在の道庁赤レンガ庁舎の30間北側に建築されました。この建築の設計に当たったのは外国人ホルトで、明治5年7月に着工し翌明治6年の7月に上棟式、10月に竣工しました。下図は建設中の写真です。
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下図は現在[開拓の村]に保存されている[開拓使本庁舎]です。
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下図は明治10年に現在の札幌駅方向から見た札幌市街の様子です。原野の中に[開拓使本庁舎]が見えます。
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明治6年7月完成したこの庁舎も明治12年1月17日の火災で焼失しました。開拓使制度は明治15年2月8日に廃止され、三県一局時代を経て、明治19年1月26日、北海道庁が設置されました。北海道庁舎は明治21年12月14日竣工しましたが、初代長官に就任した、岩村通俊は、赤レンガ創設にあたり、当時アメリカで流行っていた[独立と進取のシンボル]としての[ドーム]の取り入れを図り、屋上に[八角塔]を設置しました。写真下図は上棟式と完成した赤れんがの北海道庁です。
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新しく竣工した庁舎も明治42年1月11日の火災のため内部と屋根を焼失しましたが、明治44年11月15日、もとの姿に近い形で修復を終えました。しかし創設時に設置された[八角塔]が撤去されています。
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下の写真は現在の道庁赤レンガ庁舎です。この建物は明治21年、アメリカマサチュューセッッ州議事堂をモデルに造られた、、アメリカ風ネオ・バロック様式のレンガ造りで建築資材はサツホロの軟石など道産品などが使われています。現在この建物は重要文化財の指定を受け、館内は会議室の他、北海道立文書館、開拓記念館、樺太関係資料館など北海道の歴史が数多く展示されています。
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現在この赤れんが庁舎の裏側には北海道庁の本庁舎があります。
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赤れんが庁舎の脇には[史蹟]が設置されており、開拓使本庁舎建設の来歴などが詳しく記述されています。
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2011年11月23日 (水)

札幌の今昔(10) 大友堀から創成川へ

札幌の母なる川[創成川]は、札幌中心部を南北に流れる石狩川水系伏籠川支流の河川で14.2㌔あります。現在の[創成川]は、豊平川の幌平橋付近を源とする[鴨々川]に繋がり南7条から市の中心部を横断し北区に入り石狩市との境界線付近で伏籠川に合流します。下図上は、創成川の始発点から川下を俯瞰したもので、下は、川下の屯田地区周辺の創成川です。ポプラ並木が有名です。
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現在の[創成川]の前身は、慶応2年大友亀太郎が札幌村を開村した折に開削した[大友堀]です。
Sousei0_2大友亀太郎は、1834年(天保5年)現在の神奈川県小田原で生まれました。1858年(安政5年)に渡道し、1866年(慶応2年)には函館奉行に蝦夷地開墾の計画書を提出し、石狩地方の開墾の命を受けて現在の札幌市東区(旧元村)に土地を選んで開墾し、札幌の街造りの発端となりました。

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大友亀太郎]が計画した用水路は、当時南3条付近を流れていた[胆振川]の支流から水を引き、現在の南3条東1丁目から真っ直ぐ北に延び、北6条東1丁目から北東に進路を変えて、彼の作った[御手作場]に流すもので、現在の[大友公園(北13条東16丁目)]あたりで[旧伏古川]に注いでいました。
写真は、当時の大友堀の姿ですが、この堀は農業面ばかりでなく、運送路としても利用されていました。この堀を使って札幌市内への物資が運ばれていました。
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上の図は大友堀の大通付近の様子です。このあたりか開拓使によって札幌の中心地に決められ街造りが進められました。
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この図は、札幌村郷土記念館に掲載されているパネルです。[大友ぼり]の他に[寺尾堀][吉田堀]の名前もありますが、明治3年に吉田茂八によって南3条-南6条が開削され、北6条以北は寺尾秀次郎によって開削されました。その後明治7年にはこの堀は[創成川]と改名されました。
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当時の大友堀を保存するため作られたのが[大友公園]です。。この公園は、大友亀太郎が1867年拓いた模範農場[御手作場]跡に作られた公園で、ここは大友堀が伏籠川に注いだ場所でもあります。公園の歴史案内板には当時の大事業の様子が克明に記されています。上図は、公園の[地図の広場]です。大友堀の全体像が一目でわかるように描かれています。この地図に繋がって当時の大友堀を再現した小川が流れています。
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上図は、明治40年当時大通から創成川の東部を俯瞰したものです(所蔵 北大付属図書館)。
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上図は昭和10年の創成川の姿です。
[創成川]は、茲数年にわたる大改修工事が進められ2011年3月改修工事が完成し、[創成川公園]も造成されて装いを新たにしました。下図の左図は改修前、右図は改修後の姿です。
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創成川公園
2011年3月、永年の改修工事を終えて[創成川]が新しくデビュー。更に南4条から北1条間の[創成トンネル]の地上部に[創成川公園]が4月1日オープンしました。総工費約21億円かけて造成された公園内には、安田侃さんの彫刻など芸術作品を始めイベント広場なども整備され、[親水空間]としての公園は新しい札幌の観光スポットととしても大きな脚光を浴びようとしています。下記のスライドショーをご覧ください。
創成川公園

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2011年11月14日 (月)

札幌の今昔(9) 豊平橋

現在の[豊平橋]が架かっている[豊平川]は、明治以前はアイヌ語で[サッポロベツ]と言われ、やがて[札幌川]に変り後に豊平の地名にちなんで[豊平川]になったと云われています。
[豊平橋]の歴史は、明治4年4月渡船場の近くに架けられた二連の丸太橋に始まります。当時の札幌の人口は624人と記録されています。下図は、明治4年に架設された丸太橋です(所蔵 北大付属図書館)
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この丸太橋も雪解け水のため僅か1ケ月で流出し、その後何度となく架け替えられましたがいずれも流出の憂き目に遭いました。このため開拓使は恒久的な橋の建設に乗り出しN・Wホルトに命じて本格的な橋の建設を行いました。下図は、明治8年12月に竣工したホルトが建設した[豊平橋]です。この橋は、我が国における洋式橋梁第一号と言われています。
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しかしこの橋も明治10年4月の出水で流出し、その後も幾度となく架けては流される事を繰り返してきましたが、明治31年には北海道で初めての鉄橋が架設されました。しかし明治42年の大洪水はすざましく、この鉄橋も橋脚が傾き復旧工事を行いましたが翌明治43年6月の出水で落橋してしまいました。
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明治44年、当時の皇太子(後の大正天皇)が札幌市内をご視察の折[豊平橋]を渡られた時の写真です。鉄橋が落橋したため[仮橋]を渡られました。
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豊平川はこれまでも何度となく大洪水に見舞われたが、治水工事も急ピッチで進められ、大正に入り本格的な橋の建設がおこなわれる事となりました。下図は、大正13年8月26日完成した[新豊平橋]です。この橋は、[ブレースト・リブ・タイド・アーチ]と呼ばれる形式の橋で、北海道の名橋の一つと言われていました。
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この橋に設置された[尖塔][燈柱]は、有名でした。
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この橋の完成によってこれまで豊平橋止まりであった市電は橋を渡って[大門停留場]まで延長されました。
時代は流れ昭和時代に入るとモータリゼーションの普及と進む経済発展を反映してこの幹線の交通量も飛躍的に増大しましたが、国道36号の幅員拡張が進められましたが[豊平橋]では交通渋滞が激しい状態が続きました。そのため、昭和39年には[仮橋]を建設し旧橋の解体作業を行い昭和41年10月1日現在の[新豊平橋]が完成しました。
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この橋は、橋長132.2m、幅員27.0mで、亘り信夫氏の[豊平橋の歴史]によると現在の橋は、明治4年の仮橋を含めて第23代目の橋であると記述されています。


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2011年11月 4日 (金)

札幌の今昔(8) すすきの

[すすきの]と言えば、札幌の歓楽街として全国的にも有名ですが、その歴史は明治2年開拓使がおかれ札幌本府の建設が始まった時期に遡ります。
開拓使による札幌本府建設前まで定住者わずか 13 人だった札幌は、本府の建設作業に携わる労務者約1万人が集まり、俄かに活気を見せていましたが、彼らのほとんどは、一稼ぎし終えると本州に戻る傾向が強いため時の開拓使判官・岩村通俊は労務者対策として官営の遊郭設置に動き始めたものです。1871年(明治4年)、市街地建設に集まった数千人の職工や作業員の足止め策として、南4条から南5条の西3丁目-4丁目の二町四方に官許の[薄野遊郭]を設置しました。当時の記録によると散在していた女郎屋 7 軒を、現在の南4条~5条、西3丁目~4丁目の2町四方4ブロックに集め、周囲には高さ 4 尺の壁を巡らせ、出入りの大門も設置した大規模な「薄野遊郭」だったようです。現在の呼び名になっている[すすきの]という地名の由来については、、「辺り一面が茅(芦や薄の類)におおわれていたため」という説が一般的ですが、「遊郭完成に奔走した薄井竜之の功を称えるため、岩村判官がその姓から一文字をとってつけた」という説もあるようです。明治5年岩村判官は、今度は官営の巨大妓楼(女郎屋)開業へと動き出し(最終的には民間に払い下げる形となる)建坪 193 坪の堂々たる「東京楼」を現在の南 6 西3 に開業 、榎本武揚ら多くの高官接待にも使われていたようです。
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上図は現在の南4条西3丁目ですが、かつて[薄野遊郭]が存在した面影は全くなく、近代ビルが林立する歓楽街の姿です。すすきの変遷の歴史を辿ると、遊郭設置から半世紀が経ち大正年代に入ると札幌の人口も 10 万人に迫り、街並みも大きく様変わりしました。 大正 7 年には開道 50 年を記念しての北海道大博覧会が中島公園で催される事が契機となつて移転問題が本格化し、大正9年、遊郭はすすきのから豊平川を挟んだ対岸の白石(現在の菊水地区)に移され、薄野遊郭は 50 年の歴史に幕を降ろすことになりました。
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大きく変ったすすきので僅かに[薄野遊郭]の頃を偲ばせるものが南7条西4丁目の豊川稲荷です。 明治 31 年に落成した本堂は、今やビル街と化したすすきのにあって、明治の香りを残す数少ない建物の一つですが、境内には、芸妓の名が刻まれた門柱などが今も残されている他、芸妓の供養のための[薄野娼妓並びに水子哀悼碑]が建てられています。
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上図は、毎年繰り広げられる[すすきのまつり]の呼びものの一つ[花魁道中]の一コマです(T・Yamazakiさんからお借りしました)。この[花魁道中]は、かって東京楼開業の日、東京からやって来た遊女 20 数名が、宿舎から遊郭まで優雅な花魁道中を繰り広げたことが起源となっているイベントです。
[すすきの]の変遷
大正から昭和時代を迎えて[すすきの]も大きく変貌しましたが、平成時代には、地下鉄の開通などで街並みも変り、半世紀時代と比べてもその変容ぶりには驚かされます。
下図は、大正中期の[すすきの交差点]の写真です。当時は、市電・市バス時代ですすきの交差点には、山鼻方面・札幌駅方面・豊平方面の市電が交差していました。
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現在すすきの交差点の南西の一角には複合商業施設[ラフイラ]がありますが、[すすきの]の玄関口であるこの一角にデパート[札幌松坂屋]が昭和49年札幌で6番目のデパートとして開業しました。デパートの進出で[すすきの]は男性の夜の街から昼の女性の街にイメージチエンジが図られたといわれています。しかし唱和54年には、業績不振からイトーヨーカ堂と提携して道内では初めての大型百貨店と大テスーパーによる店[ヨークマツザカヤ]が誕生しましたが、平成6年には[ロビンソン百貨店札幌]として全館百貨店としてスタートしました。[ロビンソン百貨店]は、平成21年1月閉店し店舗は[ラフィラ]に引き継がれています。下図上[ロビンソン]下[ラフィラ]
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近代化されたすすきのの街並みは、本通などは大型ビルが立ち並んでいますが、一歩小路に入ると雑居ビルがひしめき昔ながらの飲食街の面影を留めています。
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歓楽街の中で永い間常設館として映画フアンに親しまれてまた[東宝公楽館]も平成23年閉館しました。
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昔懐かしい建物が消えていく中で、今もその姿を留めているのが、[すすきの市場]と[料亭 川甚]です。
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この建物は1958年(昭和33年)建設され、1Fは[すすきの市場]BFは[すすきの〇番地]でお馴染の飲食店街、2F-5Fは[すすきのアパート]で、札幌でも再開発ビルのはしりです。この市場の始まりは[札幌第二公設廉売市場]で、大正11年に設けられていたもので札幌の廉売市場の老舗でもあります。この市場は、ススキノのお店の調理場を一手に引き受け、夕刻になると仕入れ、配送など大忙しです。この階上は住宅公団の賃貸マンションで、札幌でもマンシヨンのはしりでした。建物自体は外壁などは塗り替えられていますが、佇まいは昔と変わらず、多くのサラリーマンが[ススキノ0番地]と呼んで夜の社交場としてに賑あっていた頃を思い出します。
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料亭[川甚]は、豊水地区を流れる[鴨々川]のほとりに昭和20年に創業した老舗です。かつてはススキノにも料亭が多くあり、それぞれに話題も多くありましたがそれらの料亭も時代の流れて殆どが姿を消してしまいました。この[川甚]だけは昔のままに残っています。外観は昔のままですが、内部は昔とすつかり趣を変え大座敷が洋風のホールに替わって現代風に変身しています。でも調度品などは昔ながらの風格を感じるものばかりです。

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2011年10月27日 (木)

札幌の今昔(7) 狸小路

[狸小路]は、札幌を代表する商店街の一つです。永い歴史を持つ狸小路の変遷を纏めてみました。
狸小路の発祥は道都として札幌が建設された明治初期にまで遡ります。明治2年開拓使がおかれ札幌本府として札幌の街づくりが進められました。この街づくりに合わせて現在の狸小路2-3丁目には、商家や飲み屋が建てられ商工業者の移住も盛んで、明治4年には現在の南1条から南3条にかけて、210戸の町並みが形成されていました。明治6-7年頃には、男をたぶらかして金を儲ける女達、所謂白首(ごけ・売春婦のこと)が多くなり、一帯は[白首小路]と呼ばれる様になっていました。男をたぶらかす、化かすことから、やがて[狸小路]と呼ばれる様になったと言われています。当時の狸小路は[白首]と呼ばれる売春宿、落語家による[寄席]、そして明治のスーパーマーケットとも言うべき[勧工場]の三つを大きな柱として形成されていました。明治6年には[東座]という芝居小屋もあったようです。
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上図は、大正3年の狸小路の様子です。
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狸小路でのビアホールの歴史は古く、明治43年には3丁目に[安田ビアホール]がオープンしたとの記録も遺されています。写真上図は、大正3年にオープンしたサツポロビール直営のビアホールで、現在もビアホールは営業を続けています。(この写真は、サッポロビール博物館のパネルから引用させて頂きました)。
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上図は、大正中期の狸小路の様子です。記録(狸小路のホームページ引用)によると狸小路は戦前は200軒以上の商店が軒を連ねていましたが、戦中転廃業が進み敗戦直前にはその数も6~70軒を数える様な状況となりました。加えて昭和20年7月には1丁目、4丁目、9丁目、10丁目などが強制疎開の対象となる等、狸小路は闇市と化し、多くの露天商が出現して[青空市場]と呼ばれるようになっていました。その狸小路も昭和21年から22年にかけて戦中転廃合したり休業していた店舗も続々と再開し始めました。昭和22年11月18日には札幌狸小路商店街商業協同組合も設立され、商店街の活性化に向けての努力が払われ商店街として大きく発展してきました。この間、昭和2年には[すずらん灯]が設置され一躍狸小路の顔となりました。その後゛昭和11年には、すずらん灯の上にネオンが取り付けられ、華やかなイメージを醸し出しました。年配の方はきつと思いだしていただける事と思います。残念ながら戦時中は撤収されましたが、昭和24年に復活しています。これがベースとなって昭和33年にはアーケードが設置され現在に至っています。
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狸小路は、創成川を挟んで1丁目が起点となり、石山通まで続いています。各丁目の店舗も時代とともに大きく変りかつての面影が僅かに残るのみです。
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2丁目3丁目ここにはかって[金市館][サンデパート]等がありました。
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4丁目5丁目かって狸小路にあつた帝国座、遊楽館に続いて2011.8月[東宝プラザ]が閉館して常設館は狸小路からすべて姿を消しました。
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6丁目7丁目この界隈は[進ラーメン横丁]と呼ばれるほどラーメン店が軒を並べています。
狸小路5丁目には、昭和48年(1973年)建てられた本陣狸大明神社(通称 狸神社)があり、ここの狸には八つの御利益があると言われています(狸地蔵八徳)。狸小路を行き交う客がお参りする姿が見られます。
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平成23年4月には創成川の改修工事が完成し[創成川公園]がオープンしました。狸小路1丁目から道路を挟んでイベント広場が造成され、様々なイベントが繰り広げられています。今夏はビアガーデンが開設され大変なにぎわいでした。

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